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第1回碁界の礎百人―田村保寿から本因坊秀哉へ【本因坊秀哉①】

 日本棋院創立を語る前に、明治後半から大正時代の碁界を大急ぎで振り返ろう。
 明治後半の覇者は十九世本因坊秀栄である。本因坊一門と方円社の併立時代だったが、秀栄の実力はひときわ傑出しており、明治39年(1906)名人位に昇りつめる。しかし名人就位の祝賀会も行われないまま、翌年急逝。突如として起こったのが後継本因坊問題である。秀栄の遺言では雁金準一を推したとされ、秀栄未亡人も雁金のために運動したものの、これはいささか無理筋だった。当時、田村保寿(やすひさ)は七段、雁金は六段。実力第一の門弟を後継者にとの本因坊家の家訓からすれば、田村が後継本因坊にふさわしい。秀栄の弟の土屋秀元(十六世本因坊)が二十世本因坊を再襲し、一年後の明治41年、田村に本因坊を譲る形で決着した。二十一世本因坊秀哉の誕生である。

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