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第72回碁界の礎百人―多くのファンを魅了した竜騎兵観戦記【田村孝雄】

名観戦記者、竜騎兵。本名は田村孝雄
盤測左から2番目が竜騎兵

 今回の主役は棋士ではなく、観戦記者である。ペンネームは竜騎兵。本名は田村孝雄(1931-1990)。群馬県桐生市に生まれ、地元の秀才の多くがそうするように国立群馬大学医学部に進んだものの、「血を見たら卒倒する自分に医者は無理」と悟り、2年修了で早稲田大学商学部に転学。「学部はどうでもよかった。囲碁部に入りたかった」。そこで出会った村上文祥とは生涯の親友となった。大学卒業後は日本棋院に就職し、編集部に配属。すぐ地方紙を中心に観戦記を書くようになる。その後、日本棋院をやめ、フリーの観戦記者を数年やって、朝日新聞社に入社。竜騎兵の誕生である。アマチュア十傑戦から始まり、プロ十傑戦、アマプロ十傑戦、そして名人戦に縦横の筆をふるった。多くのファンを魅了し、碁を知らない人にも読ませたといわれる。
 竜騎兵観戦記のどれを紹介するか悩ましいが、昭和57年の第7期名人戦リーグ、坂田栄男―島村俊廣戦をご覧いただこう。終盤譜とあるのは朝日紙上で第8譜、最終譜は第9譜である。

〈第7期名人戦リーグ〉
黒 坂田栄男九段 白 島村俊廣九段 (コミ5目半)
昭和57年3月11日、日本棋院
141手完、白棄権、黒勝ち
※棋譜再生はこちら

第7期名人戦リーグ。坂田九段と島村九段(右)

終盤譜(21―40 通算121―140) 

島村倒れる

 「どうも……。やりすぎましたかねえ」
 ボソッとつぶやき、坂田が首をひねる。白を中央に追い込む形になるから、よほどきびしくいじめないと、黒はダメばかり打つ結果になりかねない。もう一度黒31とカドに迫り、もう一度「やりすぎたかな」とつぶやく。確かに、31で36とトンでおけば堅い。中で眼をつくらせても、下辺がけっこうな地に固まる。
 島村は終始無言で、じっと坂田の猛攻に耐える。(中略)
 島村の異常に筆者が気がついたのは、白38が打たれたときである。
 「島村先生、残り7分です」
 いつものようにハイと返事をするかわり、大きく一つあくびをした。酸素の欠乏を補う普通のあくびではなく、急に睡魔にとりつかれた、そんな感じだった。閉じかけた目のふちがほんのり赤い。
 坂田、一分で黒39のカケ。うつろな目で見つめた島村は、大きなあくびを二つ続けた。手でこめかみをおさえ、首を細かく左右に振り、必死に目を見開こうとする。
 「残り五分になりました。秒読みを始めます」
 わきのカバンから小ビンを取り出し、お茶で錠剤を飲む。二分が経過し、全身の力を振りしぼるようにして白40と出た。打って座イスの背にもたれ、目を閉じる。
 このあたりでは、坂田も島村の変調に気づいたようである。心配そうに、上目づかいに島村の顔をのぞき込んだけれど、間もなく自身も秒読みが開始され、神経を盤上に集中せざるを得ない。
 やがて、もたれていた背を起こそうとして、島村の上半身が揺れた。異常は明らかであった。(中略)

最終譜(1―141) 

黒65(52)

島村立たず

 秒を読まれて白140を打った島村は、おなじく秒読みの坂田が次の手を考慮中、上体の平衡を失い、あぐらの姿勢のまま、左側の真横にバタッと倒れた。押されて脇息も倒れ、島村の頭はそれをマクラにする格好となった。
 「先生、どうされました! 大丈夫ですか」
 かけ寄って大声で聞くと、島村はあえぎながらも上体を起こしてくれ、背中を押してくれ、という。なかば薄れかけた意識の中で、対局を続けようというのである。しかし、どう見ても無理な話であった。
 (このあと、立会人が島村の棄権を宣言し、救急車で病院に運ばれたことなどが克明に書かれている)
 正式に発表された病名は、脳出血ということである。最初のうちは血圧が上がり、熱も高く、絶対安静、もちろん面会謝絶であったが、その後の経過は良好で、もうしばらく現在の状態が続けば、名古屋に帰れる見込みだという。ただ左半身がマヒしたまま、そう早い全快は望めないことから、当分はあらゆる棋戦の出場を辞退する、という申し出があった。
 本局をご覧になってもおわかりのように、まだまだこれだけ張った碁が打てるのに、本当に残念なことである。あまりにもむずかしい碁だったため、脳漿をしぼりつくしてしまったに違いない。一日も早い回復を祈るばかりだ。

 竜騎兵観戦記の一端に過ぎないが、事態を余すところなく伝え、読者に迫ってくる。なお、島村は9年後の平成3年に死去。享年79。
 竜騎兵は島村の1年前に同じ脳疾患で死去。58年の短い生涯だった。新聞社で名人戦リーグの原稿を書いているとき、異常をきたしたのだろう、右手の鉛筆を何度も落としてしまう。右半身にマヒがきたのである。左手に持ち変えて書き上げたところで、イスから崩れ落ち、意識がなくなったという。(記・秋山賢司)

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