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第8回碁界の礎百人―東の喜多、西の吉田【吉田操子】

 喜多文子の次は吉田操子(みさこ、旧姓井上、1881―1944)を紹介しないわけにはいかない。ともに女傑と呼ばれ、日本棋院創立に尽力したのも同じだ。
 京都に生まれ育った吉田は十代半ばで本格的に碁を志し、しばしば東京に出て本因坊秀栄、本因坊秀哉に師事した。頭山満に目をかけられたことも喜多と同じである。18歳で入段、25歳で二段に昇って結婚し、しばらく碁から離れたのも喜多に似ている。夫の早世で復帰して34歳三段、41歳四段。
 大正12年(1923)は初代本因坊算砂の三百回忌。吉田はこれを主宰し、坊門、方円社、裨聖会とばらばらだった碁界をまとめようと奔走する。同年5月19日、京都寂光寺で算砂の三百年祭が盛大に行われた。ほとんどの棋士、7百人以上のファンが集まり、寂光寺の境内だけでは間に合わず、となりの寺まで人があふれたという。

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