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第7回碁界の礎百人―〝女流碁界の母〟喜多文子【喜多文子】

 明治から大正、昭和初期に活躍し、〝女流碁界の母〟と呼ばれた喜多文子は、明治8年(1875)の生まれ。父は幕末の医師で6ヵ国語に通じた語学の天才司馬凌海。わが国初のドイツ語辞典『和洋独逸辞典』を著したことで知られる。凌海が40歳で亡くなったとき、文子は4歳。文子の母はかつて凌海と女流棋客林さのが親しかったのを思い出し、文子をさのの養女にと頼み込んだ。
 林さのは江戸時代の四家元の一つ、林家につながる棋客。文子が10歳になるころ、自然に碁を覚えたのを見たさのは、厳しい修行を課する。男子のように坊主頭にさせ、女物の服から男物へ。そして毎日の方円社通いが14歳で初段になるまで続いた。17歳二段、20歳三段と順調に昇段を重ねたものの、三段になってすぐ、能の喜多流家元、喜多六平太(文化勲章受章、人間国宝)と結婚し、碁から離れた。このいきさつが面白い。「貧乏な喜多家も女房が稼ぐので安泰だ」との陰口に腹を立て、きっぱり足を洗ったのである。

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